『春、死なん』(紗倉まな著)を読み終えてのエロマサ的感想♪♪

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紗倉まなちゃんはエロマサの中でNo.1のAV女優さんになります。

AV女優というカテゴリーを取っ払い、女性としてだけ見ても、エロマサの中でNo.1の女性という地位は強固なモノであります。

紗倉まなちゃんの“エロ屋”や“AV女優”という肩書を大事にしている姿にエロマサは惹かれてしまっています。

紗倉まなちゃんは、抑えきれない才能(もちろん、努力の賜物です)に溢れている女性なので、AV村という世界の中だけでなく、各種メディアに登場し、活躍をされているのは周知の事実です。

エロマサは、AV村以外の紗倉まなちゃんの活動も愛しています。

それは、AV村を離れても、AV村に所在地があり、AV村の出身者で、今もAV村に存在できていることを誇りにしているまなてぃーが好きだからです。

ハート

エロマサは、“AV村を飛び出した紗倉まな”が輝くと、“AV村での紗倉まな”がもっと輝くと信じているので、できる限り(エロマサは権力も発言力も無いですが)、応援だけはしていきたいと思っています。

そんな紗倉まなちゃんのAV村以外での活躍には、“物書きとしての紗倉まな”という存在もあります。

今回は、紗倉まなちゃんが言葉を紡ぎ、世の中に送り出した『春、死なん』という作品を読みましたので、エロマサ的な感想を綴っていければと考えています。

ただ、以下に書いてる『春、死なん』の感想は、あくまで、文学というモノを全く理解できていないバカな男が、紗倉まなちゃんの作品っていうだけを当初の理由に読み始めた本の感想を綴っているだけなので、全然、的外れなことを語っている可能性は否定できません。

あくまでもエロマサの超個人的な感想だということは忘れないで頂けると幸いです。

目次

『春、死なん』について

春、死なん

『春、死なん』という書籍には、“春、死なん”“ははばなれ”という2つの作品が収録されています。

どちらも“性”について触れられている箇所がありますが、AV女優だから、性を取り上げたってことも無いと思いますし、性を取り上げているからといって、官能小説になっているワケではありません。

紗倉まなちゃんの言いたいことを読み手に伝える為“性”という要素をまなてぃーが選んだのだと思っています。

ですので、AV女優が書いたということや、性表現ということに注目しすぎると紗倉まなちゃんが本当に伝えたいことが、見えなくなってしまうような気がしています。

『春、死なん』のエロマサ的な感想♪♪

春、死なん感想

『春、死なん』は2018年10月号の群像に収録された作品。

富雄という老人男性が主役の話になります。

富雄は視界に霞がかかったような現象に悩まされている人物です。

富雄の目の霞は、エロマサ的には、選択の難しさを感じさせられる要因になりました。

というのも、富雄の目の霞は、自分の下した選択の結果が良かったのか、正しい選択と信じていた判断が、本当に正しかったのかということを突きつけられることが原因であるようにエロマサには思えた為です。

選択することの難しさは、誰しもが実感していることと思います。

エロマサは、選択することが難しいのは、選択とは、何かを選び取ることでは無く、何かを捨てることだからだと考えています。

だから、選ばなかった未来が気になり、覗いてみたくなるのだと思います。

でも、それは通常できない話。

選択時点に戻って、選択のをやり直すのは、時間の流れが許してはくれません。

だから、自分の殻や自分が作り上げた檻に逃げ込み、閉じこもって傷つくのを避けようとする・・・富雄のように・・・。

ハート

そんなことを繰り返すことで、本当の自分を見失い、周りからも自分という存在を誤認させてしまう。

それが、老人は性欲が枯れてしまっているというような誤解を生みだし、その誤解に沿って、余計に偽りの人生を歩まねばならなくなるのではないか、そして苦しむことになるのではないかと考えさせられてしまいました。

だからこそ、エロマサの中で富雄の息子の嫁である里香が強く印象に残る人物になったのだろうと思っています。

なぜなら、里香は、傷つくのを恐れず、さらけ出した本当の自分というモノが、例え、常識では考えられない、汚らわしさを持っていたとしても、それを承認してくれる強さを持った女性だからです。

物語の中では、老人となった富雄に、まだ、ほとばしる性欲が残っていると知っても、騒ぎもせず、驚きもせず、嫌悪もせず、ただ、ありのままの富雄を受け入れ、その富雄が富雄として存在していることを認めてくれているのが里香という人物になります。

富雄のように、傷つかない為に自分の殻に閉じこもるということをしがちなエロマサという人間にとって、だからこそ肌の重ね合いという行為に惹かれる側面があるということに気づかされた作品でもあります。

肌を重ね合うという行為が、否応なしに隠しておきたい部分をさらけ出さなければならないモノだから、エロマサの中で、愛しくて憎らしい、尊くて卑しい、美しくて汚らわしい、清潔であり不潔な行為として存在し、惹きつけられてしまうような気がしています。

そして、そんな行為を表現方法の1つとして見せてくれている紗倉まなちゃんに、感情を揺さぶられ、わずかばかり、彼女から伸びている細い絆に心を焦がしてしまっているのかもしれません。

エロマサ 喜び

また、エロマサの中では、里香という人物と、まなてぃーの印象が重なっています。

まなてぃーもエロマサの中では承認をしてくれる人物

エロマサのダメな部分も、そっと認めて、時に激しく罵って叱咤激励したり、時にやさしく受け止めてくれ、包み込んでくれたりということをエロマサの中にだけにいる、紗倉まなちゃんにそっくりなエロマサにしか見えない嫁はしてくれています。

それは、取りも直さずエロマサの中に確かに存在する紗倉まなという人物の印象なのです。

『春、死なん』というタイトルは、西行法師(佐藤義清)という平清盛と同時代を生きた人物の“願はくは花の下にて春死なん そのきさらぎの望月のころ”という歌からきています。

その西行法師の歌を拝借して、エロマサの偽りの無い気持ちは、“願はくは紗倉の膝にて春死なん そのきさらぎの望月のころ”というモノだと、この作品を読んだことで、さらに強い願望となってしまいました。

桜

後、この作品を読んで、高祖父のエピソードを思い出してしまいました。

エロマサは、高祖父の記憶がありませんので、実際には聴いた話なのですが、高祖父は不動産業をやっていたらしく、裕福な生活をしていたそうです。

エロマサにその余波は微塵もないんで、“どうしてだ!?”って感情もありますが、この高祖父には、昔の人の風格というか、お妾さんもいたそうです。

死後にお妾さん側から文句も出ないくらいに、金銭的に面倒をみたそうですが、その金持ちな高祖父は100歳近くになるまで男を捨てていなかったようです。

というのも、100歳近くの年齢の頃に、80歳のおばあさんと付き合っていたらしく、不幸にも、付き合っていたおばあちゃんの方が先に亡くなったそうですが、その葬儀の際に大号泣をしたそうです。

100歳という年齢には似つかわしくない光景で、もちろん、認知症であったワケでもなく、ただ、好いた女、惚れた女の為に、周りがドン引きするほど泣いたのだそうです。

『春、死なん』を読んで、フッっと昔、母の実家で耳に飛び込んで来た、大人の会話に出ていたエピソードを思い出さしてしまいました。

エロマサも何歳になっても惚れた女の為に大号泣できる男でありたいと思っています。

『ははばなれ』のエロマサ的な感想♪♪

ははばなれ 感想

『春、死なん』に収録されている2つの話のうちの1つである『ははばなれ』を読んだエロマサの感想に触れていきます。

『ははばなれ』はコヨミという子供のいない既婚女性が主人公の物語でした。

主にコヨミとコヨミの母の関係に関する話で、エロマサの中では価値の判断基準ということについて考えさせられてしまいました。

それは、コヨミの母が、コヨミをこの世に産み出す為に、帝王切開をしたことでできた腹部のキズ(コヨミのキズ)について登場人物により、三者三様の感じ方をしていたからです。

コヨミは、コヨミのキズを母から“女性”を奪ってしまったキズと負い目を感じ、コヨミの父は、コヨミのキズを妻が女では無く、母親であると痛感させられる通行手形だと思い、コヨミの母は、コヨミのキズのことを、自分が胎内で命を育める女性であることの証であり、コヨミを産んで、コヨミの母親になれた勲章として感じているのです。

価値なんてものは、人それぞれで当然ですが、人それぞれの価値判断基準であるからこそ、エロマサはコヨミの母の強さに惹かれてしまいます。

コヨミの母はコヨミのキズを“性の証”であり、かつ、“生の証”と考えていて、そこには、母であるからといって女を捨てることも無く、女を抱えながらもしっかりと母親であるという強さを持ち合わせていて、価値基準を他者に求めるワケでは無く、自分の中にしかないという強さがあるような気がするのです。

エロマサ 説明

だからこそ、男をインポにしてしまうコヨミのキズは抱え続けられるのに、顔にできたキズには“嫁に行けなくなった”と嘆き悲しむのだと思うのです。

自分というモノを抑え、人の価値基準にのみ準じて着ぐるみを着て生きていくことは、何処かで破綻をきたすことがあるのではないかなどと自問自答してしまう、エロマサがいました。

もちろん、着ぐるみを脱いで、自分をさらけ出して生きることにも、苦しみや悲しみは付きまとうと思いますが、他人の何かの中で苦悩するよりも、自分という枠組みの中で苦悩したいとエロマサは思ってしまいます。

何かを得たからといって、何かを必ず失うワケでは無いはずです。

コヨミの母が、“母”でありながら“女”でもあり続けられているように・・・。

そんな強さを持つコヨミの母にエロマサの心が反応したのだと思います。

ハート

コヨミの母はエロマサの中で紗倉まなちゃんという女性のイメージに重なる部分が多いです。

彼女のAV女優という仕事は、男の欲望に寄り添うことを必然的で、絶対的に求められる職業になりますが、男の欲望に寄り添うだけでは、“紗倉まな”という源氏名の商品としての女性では無く、1人の女性、1人の人間としての紗倉まなちゃんという存在をゆっくりと、でも確実に消耗し、殺していくことになるのではないかと心配をしてしまうエロマサがいました。

ただ、『ははばなれ』を読んで、その心配は、エロマサの考えすぎかもって感じています。

コヨミの母的な要素が、紗倉まなちゃんの中に存在するのであれば、男の欲望に寄り添いつつも、その欲望の間で自身をすり潰していくことは無いと妙な安心感を覚えてしまったのです。

エロマサの中にも、コヨミの母的な要素はあると思います。

その要素は大切なんだとエロマサに思わせてくれる作品でした。

『春、死なん』を読み終えて思うこと・・・

春、死なん 読み終えて

“春、死なん”に収録されている『春、死なん』と『ははばなれ』という2作品を読んで思うことは、筆者である紗倉まなちゃんについて。

筆者である紗倉まなちゃんは、AV女優という特殊な職業に真剣に向き合い、AV作品の中で、SEXという特殊な表現方法を用いて、エロマサとも共感という糸で絆を持とうとしてくれる素敵な女性です。

AV女優という職業も“SEXがにしか興味が無い”とか、“ヤリマンだから”だとか、“チンコ狂いだから”などという理由で選択したワケでは無いと思っています。

しかし、AV女優という仕事は、自身の才覚や気持ちだけでは、続けられないという哀しい宿命を背負った職業だと、エロマサは理解しています。

ですので、まなてぃーは、“紗倉まなとしてあり続ける為”に、“紗倉まながすべきと思われている価値基準”から脱却しようとしているのでは無いかと思うのです。

“誰かが想い描く紗倉まな”では無く、“紗倉まなが想い描くなりたい紗倉まな”をエロマサに見せてくれようと、七転八倒しているのかもしれないと感じているのです。

もちろん、AV女優の宿命である男の欲望への対応は避けられないとは思いますが、しかし、その欲望に寄り添うだけ寄り添って、自身をすり潰して、消費していくことから決別しようとしているとエロマサは感じています。

紗倉まなが紗倉まなでいる為に紗倉まなを捨てる・・・。

そんな意思の表明にも『春、死なん』には込められているように考えています。

まとめ

『春、死なん』という本があります。

エロマサの大好きなAV女優さんの紗倉まなちゃんが筆者として書かれた本になります。

群像という雑誌に掲載された『春、死なん』と『ははばなれ』という2つの作品が収録されています。

どちらも、紗倉まなちゃんの文才が光る作品だとエロマサは感じていますが、文学の素養に乏しいエロマサには、文学的な意味で紗倉まなちゃんの書いた作品がどのように優れているのか、紗倉まなちゃんがどんな想いを込めて、1つ、1つの言葉を紡ぎだしているのかを的確に掴み取る能力は乏しいです。

ですが、エロマサの中に確実に様々な思いを残してくれた作品でもあります。

そして、紗倉まなちゃんの心の一部に確実に触れることのできる作品だとも感じています。

ですので、“紗倉まなが好き”と感じているのであれば、老若男女を問わず読まれることをオススメしたい作品になります。

『春、死なん』を読んで痛烈にエロマサの中ある想いが1つ。

“願はくは紗倉の膝にて春死なん そのきさらぎの望月のころ”

西行法師の素敵な歌を汚してしまって、西行法師や西行法師の歌を愛する方には申し訳ないとしか言いようが無いですが、エロマサの偽らざる気持ちになります。

それでは、また逢える日を楽しみに、ばいてぃ~♪♪

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