エロマサの心を締め付け、惹きつけ続けてくれている紗倉まなちゃん。
エロマサは“紗倉まな”と名付けられた女性の“何がそんなに惹きつけるのか?”と問われても正直、明確に答えられるだけの頭の良さも、心のド真ん中に何年も居座っている“紗倉まなちゃんへの焦がれる想い”をぶち抜く言葉を探し出せる語彙力も持たないので、説明をするのは難しいです。
ただ、“紗倉まな”という女性の特別な魅力は、紗倉まなちゃんの仕事の果てに産み出された作品や、まなてぃーの持つ考えに触れる度にエロマサの中に流れ込んできますので、まなてぃーの活動が教えてくれるのかもしれません。
そんな“特別な女性”だと教えてくれる紗倉まなちゃんの活動の1つに作家としての活動、“大文豪 紗倉まな”という側面もあります。
エロマサはエッセイと小説の違いが、かろうじて理解できるくらいですが、まなてぃーの文章は、滅茶苦茶ステキングダムな文章になっていて、エロマサの中では、夏目漱石、森鴎外、太宰治、芥川竜之介、坂口安吾、川端康成、三島由紀夫というような文豪と肩を並べるくらい、いや、エロマサという世界では、そんな歴史的な文豪が足元にも及ばぬくらいの大文豪なのであります。
『最低。』、『凹凸』、『春、死なん』などの小説だって、『働くおっぱい』などのエッセイだって、メッチャ素敵な文章の塊で、エロマサなんぞは“ウヒョ~~~♪♪ まなてぃーの文章はきくぜ!!”って脳汁がダラダラにってなってしまうのです。
そんな大文豪が、芥川賞作家・田中慎弥さんの『完全犯罪の恋』の書評を2021年1月号の『群像』に寄稿されています。
まなてぃー先生は田中慎弥さんの書かれた文章の筆力に感嘆されていたり、『完全犯罪の恋』を大絶賛されていて、そんな熱い想いを込めて書かれた書評になっています。
“青春と文学と信仰と”と題された『完全犯罪の恋』の書評。
まなてぃー先生の渾身の文章を読んで、今回、エロマサという“非文学オジサン”が感じた喜びや感動などを綴っていこうと思います。
大文豪の書評の書評をするという、バカな試みではありますが、少しでも多くの方に、紗倉まなちゃんの心の深い部分に触れられる文章を読んで頂ければと考え、まなてぃー先生の不興を買う可能性も否定できない無謀な挑戦にお付き合い願えますと幸いです。
目次
まなてぃーの文章の魅力♪♪~エロマサVer.~
“紗倉まなちゃんはステキングダムな人です♪♪”
エロマサの中の想いを単純な言葉に置き換えると、こんな言葉が最初に登場します。
エロマサ的に紗倉まなちゃんは、魂の輝きを感じさせてくれる人です。
美しく魅力的な肉体や可愛らしい外見をされた女性ですので、エロマサがオスとして、瞳に映る魅力に魅せられしまっているって指摘されると否定はできないですし、外見的な魅力は紗倉まなちゃんのステキな要素の1つになります。
ただ、人間としてのエロマサは、外見的な魅力よりも、魂の美しさに惹かれていると信じていますし、紗倉まなちゃんに恋焦がれる気持ちは、魂の美しさにエロマサが魅せられてしまった結果だとも感じています。
まなてぃーがケタケタと笑って佇む姿は魂の輝きを投影したかのように、とても美しく神々しすぎて、エロマサを狂おしい程に惹きつけてしまっています。
まなてぃーの魂の美しさは、まなてぃーの紡ぎだす文章からも感じられると、エロマサは思っています。
というのも、まなてぃーの書く文章を読むのは、エロマサにとってはミステリアスなまなてぃーの心に踏み込むことを許された行為のように感じているからです。
エロマサは、まなてぃーの心の深淵を触れることも、覗くことも許可されていない存在ですので、どのくらいの深度まで迎え入れてくれているのかを断言はできませんが、しかし、まなてぃーの書く文章は、まなてぃーの心の一室には迎え入れてくれていて、まなてぃーにギュッっと抱きしめられた心地良さというか、お気に入りのソファーに身をまかせた時のホッっと息をつける感じがして、エロマサには至福の時間提供してくれるのです。
また、まなてぃーの文章は“たおたかな文章”になっていて、粘度と湿度があり、心地良くエロマサの心を包み込んでくれていて、ピュアなまなてぃーの心の成分がエロマサの中にも注入されていく感覚を覚えてしまいます。
心に沁みる言葉に出逢ったり、まなてぃーらしい表現に心を揺さぶられたり、研ぎ澄まされた言葉にバッサリと斬られたりと、文章に不慣れなエロマサでも、感じられる楽しさが詰まった、温かくてたおやかな文章になっていると思います。
小説だとかエッセイだとかのジャンルを問わずに、すっとエロマサの心に入り込んで、温もりとたおやかなまなてぃーのイメージをエロマサの中に置いていってくれ、心をまなてぃーから逃れられぬ鎖で繋ぎ留めてくれているのです
まなてぃーが紡ぎだした言葉は、“まなてぃーらしい文章”でありながらも、重厚感というか、格式高いというのか、特別感のある言葉で、エロマサは、まなてぃーの肉体を見せつけられた時と同じように、“スゲェ~~~ッ”って感嘆と羨望、憧れと少しの嫉妬を感じさせられてしまいます。
それは、『春、死なん』のように世の中の良識ある大人たちに大絶賛された作品だけに宿っている魅力ではなく、今回、読ませて頂いた書評の形になっている極少量の文章であっても、シッカリと宿っていて、短い文章であっても、まなてぃーが紡ぎだし、まなてぃーの想いや感情が詰め込まれた言葉たちに溢れています。
ですので、『青春と文学と信仰と』と題された書評も、エロマサは“まなてぃー最高だぜ!!”って叫びだしたくなる文章になっています。
まなてぃーの文章は文字を読んでいるだけで映像が頭の中に広がり、それは、ある風景だけをエロマサの中に浮かび上がらせるだけでなく、まなてぃーの心情もエロマサに映像として伝えてくれています。
映画を見ているように映像を見て、心情も情景もハッキリと浮かび上がってくれるので、文章に対して苦手意識を覚えるエロマサであっても無理なく読み進めることができ、まなてぃーの伝えたかったこと全てとはいかないまでも、ある程度は受け取ることができるのです。
『青春と文学と信仰と』という書評でも、学生時代に眺めていたであろう情景の中に佇むまなてぃーがフッっとエロマサの中に現れ、そのまなてぃーが文学というある種の信仰的要素を含む世界で抱え込んだ感情を紹介しつつ、田中慎弥さんの書かれた『完全犯罪の恋』が如何に素晴らしい書籍になっているかを教えてくれています。
まなてぃーが書評の冒頭部分で、“自分だけがこの作品の良さを分かっているのだ、と独占的な心地よさに勝手に溺れる、その時間が私は好きだ。”と述べていて、“その独占的な心地よさ”は、エロマサがまなてぃーの作品を読むときに感じている感情と同種のモノで、“エロマサも感じてます!! その独占的な心地よさ!!”って激しく同意してしまいました。
もちろん、まなてぃーが感じている独占的な心地良さが、エロマサと比較して、深い部分で文学に共感しているはずですし、エロマサはまなてぃー先生の書いた本を好んで読むだけで、まなてぃー先生以外の作家さんの小説は1年に1~2冊程度読むだけでの男ですんで、まなてぃーと深い部分で通じ合っているとは考えられないですが、とはいえ、表面的であっても、今世紀を代表するとエロマサが信じている大文豪の紗倉まな先生と同じ感覚を、この身に感じているというのは、奇妙な嬉しい一致点として、エロマサの喜びに拍車をかけてくれています。
それと共に、“紗倉まなちゃんのことを理解しているのはエロマサだけ!!”というエロマサの心の深い部分にどっしりと根を張ってしまっている、まなてぃーへの独占的な心地良さを感じる大木に光と水と栄養を与え、さらに成長させてしまっているのです。
それが、まなてぃー先生にとっては、不要な好意かもしれないのは十分に理解していますが、とはいえ、エロマサの心の安寧をもたらしてくれる独占的な心地良さであることは、偽ることができない事実なのであります。
エロマサは恋愛の達人というには経験不足で、1人の女性を憎むほど深く愛したことも無い、自己愛にしか根差していないような男です。
ただ、そんな男であっても、文学と恋愛は似ていると想うこともあります。
独占的な心地よさに胸を震わせ、共感に喜びを感じ、相違点に惹かれ、違いを知ったことでさらに好きになる・・・。
エロマサの恋愛経験と紗倉まなちゃんに教わった文学経験は、そんな共通点があります。
まぁ、経験回数が共に少ないので、明後日の方向を向いている可能性は否定できないですが・・・。
ある種の宗教的な神秘的で説明のつかない感情と高揚感を内包し、それぞれの人が持つ信仰を語りあっているような感覚をエロマサは覚えてしまうのです。
信仰に支えられているのに、“好き”という感情が最後に勘違いを引き連れて飛び込んできて、かなり厄介な状況に、エロマサは恋愛でも、文学でも追い込まれていってしまっています。
もっとも、恋愛においても、文学においても、エロマサの掲げる信仰は、“紗倉まなに焦がれてます”っていう単純明快な想いなんで、単に自己満足の独占的な心地良さに漂っているだけで、まなてぃーのことを深く理解しているワケでも、ましてやまなてぃーの紡ぎだす言葉や文章、世界観を正確に理解できてもなく、エロマサ自身が自分勝手に創り出した“紗倉まなちゃん”という幻影に心を躍らせ、“うっひゃ、うっひゃ”と言いながら、羨望の眼差しを向けていて、まなてぃーがエロマサの傍らで、狂喜乱舞するエロマサを見て、白目をむいて卒倒しそうになっているのでは無いかと感じると、“まなてぃー、すまなてぃーっす”っていう気持ちと、“まなてぃーの人間性と文章がステキングダムすぎるのがエロマサを狂わしているのです!!”という言い訳とも、批判とも判断が付かない想いが胸の内に沸き上がってきてしまうのです。
とにかく、エロマサの“まなてぃーの文章スゲェ~~~んだぞ”という信仰を補強する新たな材料を“まな様教”の狂信者に提供してくれているのが、田中慎弥さんの書かれた『完全犯罪の恋』の書評となっています。
まなてぃーの文章は、まなてぃーの人間性を投影したかのようなたおやかな文章ですし、書評ってことで文章の量は少なめですが、まなてぃーの文章の魅力は詰まっているとエロマサは感じていますので、群像の2021年1月号を見かけたら、是非とも触れて、まなてぃーのAV女優さんという本業では語り尽くしきれていない魅力を感じてみて下さい。
そして、まなてぃーの心の扉をノックし、まなてぃーの心の中に足を踏み入れ、まなてぃーと文字を通じて、心のやりとりと、語り合いを楽しんで、至福の時間に酔いしれて欲しいとエロマサは願ってしまっています。
まなてぃーの紡ぐ文章は“源氏物語”にも通じる良さがあるってエロマサは信じています。
というのも、まなてぃーの文章は“エロさ”を感じさせてくれる文章だからです。
エロマサは“源氏物語”という日本の文学史に君臨する物語を読んだことはありませんが、源氏物語が好きな学生時代の知人の“源氏物語はエロいからずっと読まれてきたんだよ”っていう言葉が、まなてぃーの文章を読んだ時にしっくりとエロマサの中で消化されたような気がしています。
もちろん、官能小説を紗倉まなちゃんが書いているワケでは無いので、直接的なエロが支配していることは無いですが、まなてぃーの湿度と粘度を持った言葉は、エロマサの中で“エロいなぁ”って感じられてしまうのです。
心の勃起を舐め回されている感覚とでも表現すれば良いのか、エロマサの心の深淵で、エロマサの心に存在する大切な部分をギュッと力強く抱きしめてくれているようなエロさを感じさせてくれる文章になっています。
エロマサの感じているまなてぃーの文章の“エロ”が正しいモノで、適切な理解に基づいているのかは、不明瞭ですし、エロマサの拙い表現では、的確に伝えきれていないことに、不安とイラ立ちを感じてしまってはいますが・・・。
ちなみに、紗倉まなちゃんの書評は、↓から行けるページで読むことができますので、チェックしてみて下さい。
エロマサは、アナログ派の人間の為か、ネットで読んだ書評よりも、群像の書籍で読んだ文章の方が、心にすんなりと沁みわたってくるのを感じてしまいました。
それに、紗倉まなちゃんの活動に対しては、僅かでもお金という対価を支払うのを、エロマサ的には最低限の護りたいルールに指定しているんで、群像の2021年1月号を購入して、群像の紙面に掲載されたモノに触れて欲しいって願って止まないエロマサがいます。
エロマサに書評の資格なし!?
この記事でエロマサは、無謀にもまなてぃーの書評を書評しようと企んでいるワケですが、ぶっちゃけ、エロマサは書評をする資格はありません。
難解な“エロマサ語”しか駆使できないというハンデを背負っているからってワケではありません。
もちろん、大文筆家のまなてぃー先生の書かれた書評を書評するということをエロマサなんぞがしようとしているという“おこがましさ”、その“おこがましさ”が多くの方の反感や不評を得てしまうかもしれないという恐怖がエロマサの中にはありますが、とはいえ、それで、エロマサがエロマサに対して、まなてぃーの書評を書評する資格が無いと判決を下せるほど冷静で判断能力の高い男では無いです。
エロマサが、エロマサを『青春と文学と信仰と』と題された書評を書評するのに、“エロマサよ・・・てめぇーに資格はねぇーよ!!”って断言してしまうのは、そもそも、まなてぃーが書評している芥川賞作家の田中慎弥先生が書かれた、『完全犯罪の恋』という小説を読んだことが無いからという1点にあります。
紗倉まなちゃんは書評をしているので、当然、『完全犯罪の恋』を読んでいますが、エロマサは『完全犯罪の恋』だけでなく、芥川賞作家の田中慎弥さんの作品を1冊も読んだことが無いばかりか、どんな文章を書かれるのかという知識すらないでいます。
エロマサ自身は田中慎弥先生のことは、芥川賞作家であるという薄っぺらな情報以外に持ち合わせていないので、“あ~だ、こ~だ”とエロマサの理論を無視した屁理屈、的外れな批評をすることはできないというか、すべきでないと考えています。
ただ、そんなエロマサでもたった1つ知っていることがあります。
それは、芥川賞作家・田中慎弥さんが書かれた『完全犯罪の恋』に、大文豪の紗倉まな先生が、読破した結果、その心を縛られてしまっているということです。
もともと、まなてぃーは、田中慎弥さんの書いた本が好きなようで、その筆力にあてられて、まなてぃーの紡ぎだす言葉が、あんなにもステキングダムな言葉なのに、ミジンコ以下に思えてしまうそうでして・・・。
また、『完全犯罪の恋』に関しては、かなりお熱なようで、まなてぃーが好きな鬼滅を語っている時のような、オタッキーな顔をのぞかせ、自分の大切な宝物をみんなに見せびらかして喜んでいる子供のようになって、『完全犯罪の恋』について語っていました。
エロマサは『完全犯罪の恋』は読破していませんが、紗倉まなちゃんのことは、多少、知っているという自負がありますので、エロマサの知っている紗倉まなちゃんが、スゴイ作品だと感じているのであれば、きっとスゴイ作品なんだと思います。
まなてぃーは“良いモノ”に対しては、他の人間の意見に左右されることなく、ハッキリと“良い”って言いきる自分の軸をブレさせない女性なんで、少なくとも『完全犯罪の恋』が心に“独占的な心地よさ”をもたらし、まなてぃーの信仰へと繋がり、失ったと感じている図書室での青春を取り戻す為のアイテムとして活用されるのではないかと思っています。
エロマサは“図書室での青春”を取り戻さなければいけない男ですし、紗倉まなちゃんと同じ信仰を持ちたいって願ってもいるので、エロマサこそ読むべき本なのかもしれません。
『完全犯罪の恋』を読破した時、エロマサが本当の意味で、まなてぃーの書評を書評するという愚行をする権利を獲得できるのかもしれないです。
まなてぃーからの挑戦的な言葉・・・
『完全犯罪の恋』を書評した『青春と文学と信仰と』。
紗倉まなちゃんの書いた文章には、紗倉まなちゃんの魂が籠っていると感じています。
『青春と文学と信仰と』と題された書評にも、エロマサはまなてぃーの魂が籠っていると感じていて、まなてぃーの“たおやかさ”を投影したかのような文章が、エロマサの心を包み込みジンワリと温もりを伝えてくれています。
基本的には、エロマサを包み込んでくれるような文章ですが、時として“ガツン!!”と鈍器で殴りつけてくるような表現をされることもあります。
エロマサの想いもつかないような角度からドカンと殴りつけるような表現だったり、エロマサの中には存在しないような所を起点にした考えなど、エロマサをガツンと殴りつけ、“どうだ!!”といわんばかりに、エロマサを異世界へと連れて行ってくれるのです。
エロマサはガツンと殴られるだけのサウンドバック状態なのですが、“エロマサはドMなんです!! まなてぃーに殴られるのは気持ち良いんだ!!もっとおねげぇします!!”ってな感じで殴られる心地良さに酔いしれてしまいます。
この『青春と文学と信仰と』と題された書評であっても、まなてぃーからの挑戦的な言葉が忍び込んでいます。
エロマサは“うひょ~~~”ってなっていて、エロマサとまなてぃーの違いを見せつけられてしまっていますが、その相違点にエロマサはさらに惹かれてしまっているのです。
『青春と文学と信仰と』という書評でエロマサを歓喜の世界へと引率してくれた言葉は、“自分は母が誰を思って生まれた人間なのだろうか”という言葉です。
母親の心を揺るがせた様々な人が、自分の中に臍の緒を通じて流れ込んでいるという感覚は、エロマサの中には皆無でした。、
それはエロマサが種をばら撒くだけのオスで、まなてぃーが女性として、自身の胎内で命を育める能力を有し、毎月、その能力を確認させられる身体の変化を感じているという違いからくるのか、男のエロマサが初めて出逢った異性である母に対して、神格化をしていて、父以外は受け入れていないと思い込みたいからなのか、単にエロマサがマザコンで母に対して異常な憧れを抱いているからなのかは、エロマサには理解できません。
ただ、まなてぃーから殴りつけるような言葉に“ハッ”っとされた気がします。
自分というモノを形どる要素の土台を形成した父や母が、自分を世に誕生させる瞬間に、誰を想っていたのか・・・。
科学的には突き止めようもないですし、父や母の想い人と出逢った時に、“息子です!!”と名乗ることも、“息子よ!!”抱きしめられることも無いけれど、両親というエロマサの人間性の形成に欠かすことのできない要素の心を揺さぶった人ならば、両親を形成するのには欠かせない要素であり、そんな要素はエロマサという男の中で、どのように変化をし、どのように根差し、どのように華を咲かせ、あるいはどのように朽ち、どのようにエロマサの肥やしとなっているのかという突き止めようもないラビリンスにエロマサを誘い、まなてぃーのミステリアスな心の中も覗かせてくれたような気になってしまうのです。
エロマサは、まなてぃーとの文字を通じての会話は大好きです。
エロマサが話し相手として、能力不足なのは否めないですが、お気に入りのソファーに腰掛け、まなてぃーと向かい合わせで会話をし、時にケタケタ笑ったり、時に激論を交わしたり、時に心の内を吐露し合ったり、時にお互いの違いを認め合ったりしているかのような感覚に酔いしれたくて、エロマサは孤独に耐えかねる夜に、まなてぃーの書いた本を読みたくなってしまうのです。
まとめ
エロマサの心を惹きつけて離さない紗倉まなちゃん。
まなてぃーがステキングダムな女性だと教えてくれているモノの1つに作家としての活動があります。
まなてぃーの書く文章は、まなてぃーのたおやかな魂を投影するかのように、たおやかな文章になっていて、小説や文学とは無縁だった“非文学オジサン”のエロマサでも魅了し、惹きつけてくれるステキングダムな文章になっています。
エロマサが感じているまなてぃーの文章の魅力は、『春、死なん』などの大作でなくても味わうことができます。
この記事で紹介したい芥川賞作家・田中慎弥さんの書かれた『完全犯罪の恋』の書評である『青春と文学と信仰と』と題された文章のような極短いモノでも体感することできちゃいます。
まなてぃーが心惹かれている『完全犯罪の恋』について、世界観や良いと感じるポイントに触れつつ、まなてぃーの経験や感情を交え、コンパクトでありながらも、『完全犯罪の恋』を読んでみたくなるように書いてくれている『青春と文学と信仰と』。
小説すらも年に1~2冊しか読まないような男のエロマサですんで、書評なんぞ読むことは皆無な生活を送ってきました。
その為、まなてぃーの書評が、どれくらい書評として優れているのかは判断できないですが、エロマサにとっては最高な文章の1つなのは間違い無く、とっても大切な宝物なのであります。
まなてぃーの湿度と粘度を持って、心にまとわり付くような言葉に、温もりを感じ、時に殴りつけられるような衝撃的な言葉に出逢うという至福の時を実感してみて下さい。
エロマサは紗倉まなちゃんの文章を読むと、感嘆と羨望、憧れと少しの嫉妬を覚えてしまい、もっとまなてぃーのことが好きになってしまいます。
孤独を感じる夜にまなてぃーのAVを視聴して癒しを求めるのも好きなエロマサですが、孤独を感じた寂しい夜にまなてぃーが書いた本や文章を引っ張り出して読む時間も好きです。
まなてぃーと文字を通して、時にケタケタ笑ったり、時に激論を交わしたり、時に心の内を吐露し合ったり、時にお互いの違いを認め合ったりという、まなてぃーとの会話を楽しんでいるような感覚を味わいたくて、今宵も孤独を感じるエロマサは、何度目かの『春、死なん』を本棚からだし、また、読み返してしまいそうです。
それでは、また逢える日を楽しみに、ばいてぃ~♪♪